史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「韓国併合」  森万佑子著 中公新書

先に読み終えた「琉球処分」に続いて今度は「韓国併合」である。従来、韓国併合については、主に日本の歴史学・政治学研究の成果を反映して書かれた書籍が多かったが、本書は「大韓帝国が成立して崩壊していく過程」に注目して、どちらかといえば朝鮮半島の視点で歴史が語られていることが特徴となっている。これまで朝鮮半島の歴史(特に近代史)に触れることが少なかったので、韓国併合に至る歴史を知ることができて非常に新鮮であった。

終章では韓国併合をめぐる日韓の論争を紹介する。それまで比較的淡々と歴史を語ってきた本書であるが、現代に至るまで日韓で激論が交わされている論争はなかなかに刺激的である。筆者は「両国の歴史教育には明らかに距離がある」と努めて冷静かつ客観的に述べている。筆者は歴史学を専門とする者であり、韓国併合条約や日韓議定書、日韓協約の有効・無効を巡る議論について「法学的な観点から結論を述べる」ことは敢えて避けるという姿勢を取っている。

ただし史実として①通常の決裁過程を経ていないこと ②高宗皇帝が認めていないこと ③日本側により強制があったこと、以上三点については国際法解釈の問題ではなくて歴史的に動かせない事実である。加えて、日韓の史料の在り方についても言及している。東アジアにおいていち早く近代化した日本では、史料の記録や保存方法など実務レベルの細部まで西欧的な条約体制の外交を採り入れようとした。その結果、日本外交文書には多様な文書の蓄積がある。

一方、伝統的な中国との宗属関係をできるだけ維持しようとした朝鮮では、外国使臣との交渉や外部(日本でいう外務省)と在外公館とのやりとりを克明に記録した文書は存在しておらず、意思決定者である高宗の意図すら史料から推定することは難しい。

そういう両者の史料を突き合わせて事実を特定しようとしてもかなり難しい作業となる。我々も日頃から感じているところであるが、韓国人は「こうあるべき」という道徳的価値観という眼鏡を通して史実を見ている。韓国史は「ウリヨクサ」(われわれの歴史)と呼ばれる韓国人の歴史なのである。

日本では「歴史には複数の見方がある」ことが前提となっており、(特にアカデミーの世界においては)自国史も一次資料に基づいてできるだけ客観的に、淡々と史実を特定しようとする。両国の間では歴史の取り扱い方や歴史教育に明らかに相違がある。その中で両国の政府や歴史学者や法律学者が一致点を見出すことはほぼ絶望的(永遠に平行線)と思われる。

十九世紀末の東アジアにおいて、最大の攪乱要因はロシアであった。日本はいわゆる「満韓交換論」を提案したが、ロシアはこれを即座に拒絶した。歴史にイフは禁物だが、もしこの時ロシアが日本の朝鮮半島における全権を認めていれば、その後の日露戦争は回避できたかもしれない。しかし、今日まで続くロシアの飽くなき領土拡大意欲を考えれば、「あわよくば満州も朝鮮半島も」というのがロシアの自然な発想であり、結局のところロシアにしてみれば「満韓交換論」など一蹴されるのが当然であろう。武力に訴えれば日本など到底ロシアの相手ではない、というのはロシアだけでなく日本側も一致した認識であった。

大韓帝国の最高権力者である高宗が、親露的であり、保守的で(つまり伝統的な中国との宗属関係を重視し)、近代的民主主義を受け入れようとせず専制的な体制を志向した。この時期の朝鮮にもいち早く近代化を成し遂げた日本の力を借りて近代化を推し進めようという思想を持った人が一定数いたことは事実である。もう一つのイフは、高宗が彼らの声に耳を傾け、西欧的近代化を進めていればその後の日韓併合も避けられたかもしれないということである。日本の視点で大韓帝国の歴史を見ているとついそのように妄想してしまうが、そもそも夫人(閔妃)を日本に暗殺された高宗にそのような姿勢を望むのは無理な相談かもしれないが。

併合された朝鮮は、日本の手によりインフラが整備され、近代的な学校教育や法制度が確立した。日本は「朝鮮が近代化できたのは日本統治時代のおかげ」という。これはほぼ事実であるが、そもそも近代化を欲しなかった韓国との間で常に議論はかみ合わない。おそらく今後も平行線のままだろう。

「アメリカ革命」  上村剛著 中公新書

アメリカ旅行を翌月にひかえ、この国の歴史を整理しておきたいと思って手にとったのが本書である。奥書によれば、筆者は東京大学の出身で、そう聞くとまた難解な文章かと読む前から身構えてしまったが ――― 頻繁に登場する聞きなれないカタカナの固有名詞には辟易したものの ――― 一旦読み始めるとまったくストレスなく読み終えることができた。分かりやすい平易な文章である。

アメリカ革命と聞くと、1776年7月4日に発せられた独立宣言とその前後の出来事を指すものかと想像していたが、本書での捉え方はかなり広範である。概ね独立戦争からアメリカが安定した国家運営に至る1840年代までの約七十年間にわたる「長期プロジェクト」をアメリカ革命と定義している。

草創期のアメリカ合衆国というと、イギリスとの独立戦争に勝利し、成文化された連邦憲法が制定され、初代大統領にワシントンが就任する華々しいサクセス・ストーリーが語られるが、現実はそのような美談ばかりではない。

本書では、美談の裏にあるエゴの衝突、反乱を暴力で抑え込む権力、納税を逃れるために西部に逃げる人たちの姿、いつまでも無くならない奴隷制度等々を次々と暴く。うんざりする話の連続だが、筆者は決して筆を止めない。「あとがき」で

――― 本書に登場した人物の誰にも筆者は特別の思い入れはない。英雄化もせず、悪漢のように描くこともせず、なるべく冷静に書くことを試みた。

と書いているが、この姿勢が本書叙述の安定感・安心感に繋がっていることは間違いないだろう。

一番読み応えがあったのが第三章「連邦憲法制定会議-一七八七年」であった。本書によれば「独立宣言と並ぶ建国史のハイライト」であり「独立宣言以上に重要」としている。この時制定された憲法が今日に至るまで運用されてきたもので、アメリカを今なお支える屋台骨となっている。

忘れてはならないのが、アメリカ合衆国は最初から現在の姿をしていたのではないということである。連邦憲法が制定された時点で、アメリカには十三州(独立戦争前は十三の植民地)で構成されており、しかもそれぞれが別々の成り立ちを持ち、独立した政治体制を有していた。中には邦レベルで憲法を持っていた。直感的に考えても、ばらばらの邦を連邦化するのは容易なことではない。とはいえ、軍事・外交面を考えると、各邦を束ねる連合が必要なことは明白であった。

連邦憲法制定会議は、しばしば収拾困難なほど紛糾した。一つは大きな邦(ヴァージニア、ペンシルバニアなど)と小さな邦(ニュージャージー、デラウェアなど)の対立である。それとは別に南部と北部の対立もあった(この八十年後、南北戦争に至る亀裂である)。対立が続くとしばしば膠着状態に陥り、そこで何とか妥協がはかられ、両者がしぶしぶ歩み寄って、何とか憲法の条文の具体化に至る、その繰り返しであった。結果的に出来上がった連邦憲法は妥協の産物かもしれないが、憲法を巡って激論を交わす姿にうらやましさを感じる。翻って現代の我が国では、憲法改正の必要性が叫ばれて久しいが、いまだにその議論さえ始まっていない。いったいどうなっているのか。

ヴァージニア案では、代表の人数(議席配分)は、分担金か自由民の数に拠るとされた。その際、黒人奴隷はどうカウントするのか、という問題があった。当時の感覚では、黒人奴隷は財産であって人ではないのである。奴隷解放に賛同する北部州が反発して黒人を人として扱うと、南部州の権力拡大に繋がるというディレンマがあった。

ここで驚くべき妥協案が提示される。人口を数えるとき、黒人奴隷は五分の三でカウントしましょう、というのである。要するに黒人は一人の人間としては見ませんといっているに等しい。白人しか参加していない会議において、これは有力な妥協案となった。この「五分の三条項」は、南北戦争後の1868年に廃止されるまで存続した。

船出した新生アメリカ合衆国は、早々に党派対立に直面した。連邦政府の強権化を目指すフェデラリストと、それに反対するアンチ・フェデラリスト(リパブリカン)の対立である。両党派の対立は、エリート統治を重視するフェデラリストと世論を重視するリパブリカンの対立でもあった。十九世紀に入ると、新聞が急速に発展し、それがアメリカにおける一つの重要な政治原理である民主政(デモクラシー)へと繋がった。

フェデラリトとリパブリカンという二党派が、今日の共和党、民主党の二大政党にそのまま受け継がれているわけではないが、アメリカは草創期から二党派に分裂して対立するのが好きな人種であることが良く分かる。我が国では、二大政党制が叫ばれて久しいが、現状を見れば多党林立しており二大政党とは程遠い。単純にいえば多党制の方が大衆にしてみれば選択枝があって良いように思われるが、一方で小さな政党に政権担当能力が欠けてしまうのは避けられない。多党林立と二大政党状態、それぞれ得失があるが、どうしてアメリカでは世の中を二分して対立する構図が普通になったのだろう。読み終えて新たな疑問が湧いてきた。

矢板 Ⅱ

(野崎)

 矢板市内を走る国道4号線を北上すると野崎橋の手前(南側)に小さな丘があり、そこに明治天皇御野立所紀念碑が建つ。往時はここから周囲が見渡せたのだろうが、樹木が繁っていて見晴らしは良くない。

明治天皇御野立所紀念碑

 明治四十二年(1909)十一月七日、箒川をはさんで特別大演習が行われ、明治天皇はこの場所で統監した。南北両軍の将兵は合わせて七万五千に及んだ。天皇の周囲には軍の幕僚や参謀らが金モールの肩章を付けて並び、天皇を迎える官民の代表や一般民衆で沿道が埋まったという。

 

 

さくら Ⅲ

(龍光院)

 喜連川の龍光院は、足利尊氏の開基により創建されたと伝えられ、足利家の菩提所となり、寺領五十石を賜り、喜連川藩公代々祈願追善の香華の院であった。

龍光院

足利家歴代の墓



惇徳院殿允山元大居士(喜連川彭氏の墓)

 喜連川彭氏(ちかうじ)は、下野喜連川藩の第八代藩主。明和八年(1771)の生まれ。父は七代藩主恵氏。寛政元年(1789)、父の隠居に伴い家督を継いだ。寛政二年(1790)、左兵衛督に任じられた。文政十三年(1830)、熈氏に家督を譲って隠居した。天保四年(1833)、没。享年六十三。

 

 喜連川熈氏(ひろうじ)は、文化九年(1812)の生まれ。文政十三年(1830)、封を継いで九代藩主となったが、天保期からの財政困難のため抜本的な改革を余儀なくされた。まず義倉を設置し士風を刷新し、嘉永年間に至り領内惣検地を断行した。しかし、改革方針は門閥世家の尊重に見られるごとく、きわめて反動的なものであったため、その改革も結局失敗に終わった。彼の死とともに、彼に協力した門閥世家に対する反感は家中に激しい党争を起こした。文久元年(1861)、年五十で没。

 

 

芳賀

(東伝寺)

 芳賀東小学校の近く、東伝寺に当地出身の医家平石謙三の墓がある。

東伝寺

大機院天慧仁真重胤居士(平石謙三の墓)

 平石謙三は、天保四年(1833)の生まれ。父は医者平石謙二(滔斎)。諱は重胤。初め謙斎と称し、のちに謙三と改めた。嘉永二年(1849)、江戸に出て芳野金陵および安積艮斎、田中文蔵らに漢籍を学ぶとともに、幕府の侍医喜多村香蔵に医術を学んだ。嘉永六年(1853)、帰郷。皇漢医として世に立ったが、さらに西洋医学を学んだ。思想的に水戸学の影響を強く受け、宇都宮の児島強介、菊池教中、真岡の小山鼎吉、小宅文藻ら志士との交友が深かった。坂下門事件に関与し、大橋訥庵の門人椋木八太郎が来たり謀議するところがあった。晩年は家業の傍ら、社会教化、殖産興業に尽力した。明治二十九年(1896)、年六十四で没。

 

真岡 Ⅳ

(神明神社)

神明神社

 真岡市境の神明神社は、明治四十年(1907)十一月、近衛師団をはじめ、第一・第三・第十五の四個師団が参加し、陸軍特別大演習が挙行され、明治天皇が大元帥として三軍を統監したことを記念するため、創建された神社である。同年十一月十八日、演習を観望し得る高台において、奥保鞏参謀長以下文武官が随従する中、数日間にわたる大演習の講評を宣した場所を永遠に記念するため、土地一反歩を買い入れ、明治四十一年(1908)十二月、知事の許可を得てこの地に社殿を新築したものである。

天皇駐蹕之所碑

 

壬生 Ⅳ

(常楽寺つづき)

鎌田基通之墓(鎌田才四郎の墓)

 鎌田才四郎の墓を訪ねて、常楽寺を再訪した。才四郎の墓は、福島家の墓所内にあり、しかも通称の才四郎ではなく、諱の「基通」が刻まれている。

 鎌田才四郎は天保元年(1830)の生まれ。諱は最初孝精、のちに基通。通称は慈之助、幸三郎、才四郎。雅号は確堂。身の丈五尺五~六寸(約一・六八メートル)ほど。特に槍術に長じていたという。元治元年(1864)、水戸天狗党筑波勢が挙兵すると、壬生藩士太田信義らとともにこれに加わり、一行が下野大平山に立て籠った際には、太田信義が外にあって軍器・兵糧調達に奔走したのと呼応し、軍中で活躍した。壬生藩がこれを知り、太田ら同志八人とともに捕縛された。才四郎は憤激に堪えられず、事件の顛末を詳細に記した遺書を残して牢内において自刃した。年三十五。

 

(雄琴神社つづき)

明治天皇御製碑

 鳥居の前に明治天皇御製碑が建っている。

 

 目に見えぬ神の心に通ふこそ

 人の心のまことなりけれ

第二十六回神宮式年遷宮参宮記念 平成二十六年三月六日~八日

 もう一つの御製碑。

 

 神風の伊勢の内外の宮柱

 動かぬ國のしずめにぞたつ

 

(東雲公園)

 雄琴神社から「しののめさくらばし」を渡った対岸に東雲公園がある。ちょうど桜の盛りを迎え、折からの好天もあって大勢の家族連れで賑わっていた。駐車場も満杯だったので、雄琴神社から歩くことにした。

東雲公園

天皇観兵之所

 東雲公園から国道352号線をまたいだ北側に東雲児童公園がある。こちらは対照的に人の姿がない。そこに明治天皇観兵之所碑がある。近衛師団長男爵(当時)長谷川好道の書。

 

(壬生小学校)

藩校 學習館 故址 正徳三年(1713)正月創立

 壬生小学校のある場所は、藩校学習館の跡地である。校庭の北に石碑が建っている。

 壬生の藩校は学習館という名称で、正徳三年(1713)、鳥居忠英(ただてる)のときに創立された。忠英は近江水口城主だった頃、京都堀川古義堂の伊藤東涯(仁斎の息)に師事していた。壬生に入部すると、直ちに学校「文武場」を創立し、人材育成を目指した。学風は師家の仁斎学(古義学)を主とした。創設された正徳三年(1713)というのは、元禄年間に創建された米沢藩の興譲館に次ぐ早い時期となる。第六代鳥居忠挙(ただひら)のとき、名称を学習館に改め、仁斎学から朱子学に改められた。

 

明治天皇壬生行在所 天皇御駐蹕所

 壬生小学校の校庭の片隅に明治天皇に関する石碑が二基並んで建てられている。明治三十二年(1899)十一月十七日および明治四十年(1907)十一月十七日に明治天皇が当地に滞在したことが記されている。右側の壬生行在所碑は奈良武次(陸軍大将)、駐蹕所碑は鮫島重雄(陸軍大将)の書。

 

(壬生)

天皇御野立之所

 壬生の水田の中に明治天皇が明治四十二年(1909)十一月十五日、当地で休憩をとったことを記念したものである。

 

栃木 Ⅵ

(川連家墓地)

 大平町真弓の法王寺の北側に川連家の墓地があって、その中に川連虎一郎(かわつれ こいちろう)の墓がある。周辺は一面の麦畑である。深い緑の絨毯が風に揺られる風景にちょっと感動した。

智廣院城楽義路居士(川連虎一郎の墓)

 川連虎一郎は、天保十三年(1842)の生まれ。実家は関宿藩領内十数ヵ所の大庄屋であった。江戸に上って藤森弘庵の門に入り、また水戸に数回遊び、水戸学を学び、藤田小四郎らと交遊を深めた。さらに江戸では大橋訥庵の教えを受け、また菊池教中とも交わり、文久二年(1862)正月の坂下門事件に関係したが、連累を免れた。元治元年(1864)三月、水戸天狗党が挙兵すると、これに参加し、特に軍資金の調達に当たった。江戸にて武器を購入し、大平山に帰ったところ、筑波勢が立ち去った後だったため、やむなく再び江戸に潜匿したが、関宿藩佐幕派によって洲崎にて斬殺された。年二十三。明治二年(1869)、洲崎神社に顕彰碑が建てられている。

 

(おおひら歴史民俗資料館)

おおひら歴史民俗資料館

 おおひら歴史民俗資料館で地元出身の川連虎一郎関連の展示を見学した。入館料百円。受付で

「白石家戸長屋敷もご覧になりますか。」

と聞かれる。一瞬迷ったが、追加で百円支払えば良いということだったので、ついでに見学することにした。

川連虎一郎の死後贈位を伝える新聞記事

 川連虎一郎は、死後(大正四年(1915))、従五位を贈位されている。

川連虎一郎が使用した陣羽織

川連虎一郎の書

白石家戸長屋敷

(横堀)

大平町横堀に国分義胤の生家があり、そこに国分先生碑銘碑が建っている。

国分家は横堀の豪農で、父義明も関宿藩領十九ヵ村の郡中取締役を務めた。義胤も同藩の農兵約百名の訓練に当たっている。

 

 国分義胤は、天保三年(1832)の生まれ。義胤は諱。通称は五郎。安政年間、出府して志士と交わり、特に大橋訥庵に師事してその影響を強く受けた。坂下門事件、水戸天狗党とも関係があった。維新後江刺県大参事に任じられたが、官命を待たず窮民を救済したため、免官・位記剥奪された。しかし、間もなく山形県少参事に転じた。帰村後は自宅を学舎とし、明治十一年(1878)、変則中学を開いた。晩年は医業を栃木県黒磯に開業した。明治四十一年(1908)、年七十七で没。

国分先生碑銘

 この近くに共同墓地があり、そこに国分義胤の墓がある。

仁達院國譽義胤大居士(国分義胤の墓)(右)

 

(柳原)

天皇駐蹕之所

 大平町から壬生方面に向かう道(旧・栃木街道)を北上し、思川を渡ると壬生町が近い。右手に太陽光発電設備があり、その中に明治天皇駐蹕之所碑がある。

 明治三十二年(1899)、演習の終了後、この場所で兵士の分列式や勅語の下賜が行われた。

 

足利 Ⅳ

(徳正寺)

 嫁さんが三日ほど家を空けるというので、その間自動車で遠征するチャンスを得た。久しぶりに東北地方を目指そうかと考えたが、とても三日では足らないので、今回は栃木、茨城をターゲットとした。

 初日は足利、栃木(大平)、壬生、真岡、芳賀、さくら、矢板、那須塩原、那須を巡り宇都宮で宿泊。二日目は宇都宮、今市、中禅寺湖を経て、太田原、黒羽、そこから茨城県に入って大子、日立、水戸に至る。三日目は、水戸市内の酒門共有墓地や常磐共有墓地で心行くまで墓巡りという計画である。この三日間、天気にも恵まれとても充実感した旅となった。

 朝六時前に八王子の自宅を出発し、八時には第一目的地である足利徳正寺に着いた。

徳正寺

 天狗党の乱に参加した刈谷三郎の墓を訪ねて徳正寺に足を運んだ。

 代わりに三郎の兄、鈴木敬裁の碑に出会うことができた。おそらくこの鈴木家の墓域に刈谷三郎も葬られていると思うが、残念ながら刈谷三郎の墓は特定できず。

勤王志士 鈴木敬哉之碑

 鈴木敬哉(けいや)の父は洋医鈴木千里。刈谷三郎の実兄で、幕末、志士活動に奔走した。幕軍との戦闘に参戦して右腕に重傷を負った。

刈谷三郎の墓?

 流麗な草書で記されており、何が書かれているかさっぱり分からない。これが刈谷三郎の墓か。

 刈谷三郎は弘化元年(1844)の生まれ。父は足利藩儒鈴木千里。雅号を無隠といった。父の感化を受けることが強く、藤田小四郎とも親交があった。十四歳の秋、江戸に上り、古賀茶渓の久敬学舎に学び、次いで昌平黌に転じた。元治元年(1864)三月、水戸天狗党が筑波山に挙兵するとこれに参加し、田中愿蔵の竜虎軍に属した。天狗党分裂後は、逃れて江戸・京畿等を放浪し、仏門に入ったこともあった。維新後は千葉裁判所判事となり、次いで東京に転じたが間もなく官職を辞した。京都相国寺に来て禅問に入り後進の誘掖に努め、青鴻維摩会を率い、あるいは師範学校にて教鞭をとった。また大阪陽明学会のために尽力した。明治四十三年(1910)、年六十七で没。

 

横須賀 Ⅸ

(軍港めぐり)

 ウェルニー公園の対岸に横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)があった。横須賀製鉄所の工事が着工されたのは慶応元年(1865)のことで、以降様々な施設が建設され、横須賀の街とともに発展した。横須賀製鉄所では、最新の加工機械が導入されただけでなく、日曜休日制や労働時間管理、メートル法、健康診断などの新しい仕組みが始められた。

 

 製鉄所内には三基のドライドックが設けられた。このドックは今も現役で稼働している。ウェルニー公園から見て右から第一号、第二号、第三号と並んでいる。一号ドックは明治四年(1871)に完成した我が国最古の西洋式石造ドックである。

 

 旧・横須賀製鉄所のドライドックを間近に見るために軍港巡りに申し込んだ。軍港めぐりのホームページから予約可能。料金は一人二千円。

Sea Friend 7号

第1号ドック

第3号ドック

第2号ドック

アメリカの空母  George Washington

 軍港巡りはSea Friend 7号という二階建ての船で、四十五分ほどかけて横須賀港を巡るツアーである。結論からいうと、船の上からでも、対岸からでもあまりドライドックの見え方は変わらなかった。

 とはいえ、案内人の方は四十五分間しゃべり放しで、船上から見える日米の艦船(イージス艦、空母、潜水艦等々)に関する詳細な知識は圧倒的であった。そちらの方面に興味の薄い私だが、案内人の話を聞いているだけでも値打ちがあるものであった。