2013-06-01から1ヶ月間の記事一覧
著者磯田道史氏は、最近マスコミへの登場が目につく若手学者である。だいたいマスコミに受ける学者さんというと、大向うをうならせることを意識した発言ばかりで信用がならない。 という次第であまり期待せずに読み始めたが、思いのほか説得力のある主張ばか…
幕末の会津藩も多士済々であるが、庄内藩も人材の多様さでは負けていない。「新徴組」は、庄内藩を舞台とした小説であるが、敢えて庄内藩の多彩な人物を登場させず、必要最低限の登場人物で抑えたところにこの作品の読み易さの秘訣がある。 主人公は、新選組…
(大内宿) 大内宿 大内宿は、今も昔の面影を残す宿場町である。町を貫く道路も舗装されないままで昔の風情を伝え、人気の高い観光地になっている。 大内宿は江戸初期に会津西街道の宿駅として整備された。参勤交代や旅人の通行、物資の輸送などに利用された…
(大芦) 戊辰の役古戦場跡 慶應四年(1868)八月二十三日というと、会津若松城下に西軍が雪崩れ込んだ、会津藩にとっては忘れ難い日である。その後、金沢藩を主体とした西軍は、野尻郷各村に宿陣し、警備を固めた。これに対し九月二十四日朝、会津藩軍…
(照国寺) 照国寺 照国寺の山門は、延享二年(1745)に再建されたもので、現存する山門では会津地方最古にして最大のものといわれる。ただし往時は茅葺だったが、現在はトタン製に改装されている。 河原田包彦追悼碑 河原田包彦(かねひこ)は、会津藩…
(河井継之助記念館) 河井継之助記念館 この山あいの寒村が史上脚光を浴びたのは、長岡藩の河井継之助が、この地で息を引き取ったときが唯一であろう。八十里を越えて只見に至った河井継之助は、ここで四十二年間の激動の生涯を閉じた。河井継之助がここで…
(横田) 山ノ内家之墓 (山之内大学墓) 福島県金山町。“かねやま”と読む。山形県の金山町と同じ読みである。 金山町の横田にはJR只見線が走る。山之内家の墓がある墓所には、踏切はないが只見線の線路を越えなくてはいけない。積雪が線路を覆うように残っ…
(円蔵寺) 円蔵寺 円蔵寺は、茨城県東海村の村松虚空地蔵尊、宮城県登米市の柳津虚空地蔵尊とともに日本三大虚空地蔵尊と称され、別名福満虚空地蔵とも呼ばれる(別に三重県伊勢市の金剛證寺とする説もある)。 只見川に臨む断崖に堂宇が建てられている。本…
(常楽寺) 常楽寺 常楽寺には、会津藩士山本栄三郎、長岡藩士岡村半四郎、中田良平、薩摩藩士吉田与藤次の墓がある。 山本栄三郎墓 山本栄三郎は、田中大海家来。朱雀寄合二番西郷隊附属。慶應四年(1868)、七月二十九日、新潟にて戦死。 岡村半四郎・…
(光照寺) 光照寺 戦死六人之墓 光照寺本堂前の戦死六人之墓には、会津周辺で戦死した高田藩士および福井藩士六人(新村美代吉、松井勝之助、高橋源四郎、大西孝左衛門、増永磯之助、渡辺源四郎)が合葬されている。 (光明寺) 光明寺 小倉藩二名墓 生田孫…
(束松事件の地) 束松事件の地 束松事件とは、元越前藩士久保村文四郎が、会津藩士高津仲三郎、伴百悦らによって殺害された事件である。久保村は若松藩の役人となり、会津藩を誹謗中傷したことから恨みを買っていた。任を終えて帰郷する途中、この地で殺害…
(中里墓地) 官軍松代藩戦死五人墓 明治元年(1868)九月十一日、熊倉にて戦死した松代藩士五名の合葬墓である。被葬者は不詳。 (光明寺) 光明寺 官軍松代藩士之墓 光明寺には戦死した松代藩士十一人の墓がある。浅井徳三郎、五明栄次郎、藤井芳郎、…
(長福寺) 長福寺 戊辰戦争後、会津藩士は東京と越後高田に謹慎させられた。その家族の多くは、城下の混乱を避けて地方で避難生活を送った。佐川官兵衛の家族も長福寺に移り住んだ。 佐川官兵衛之墓(右) 佐川官兵衛妻墓 戊辰戦争で勇名を馳せた佐川官兵衛…
(大谷古墳公園) 大谷古墳公園 大谷古墳公園と名付けられているが、果たして古墳かどうかは判然としない。よく見ると古墳の前に小さく「伝」という文字があとから貼られた形跡がある。しかし大谷部落の歴史は古く、弥生時代後期にはかなり栄えていたことが…
(新町西墓地) 戦死八人墓 佐藤政治、小池弥久、小川勇之助、山田重三、湯田忠吾、吉田善七、目黒常次郎、深谷作三郎という八人の戒名を刻む合葬墓である。いずれもこの地域出身である。 田母神金吾墓 田母神金吾は、百五十石。朱雀士中四番隊小隊頭。慶應…
(法用寺) 今年のGWは、会津若松に二泊、仙台に二泊、計四泊五日で福島県、宮城県の史跡を回ることを随分以前から計画していた。ところが、直前になって嫁さんから「土曜日に息子の学校の保護者会に行ってほしい」と頼まれた。断る正当な理由もなく、私は半…
上海出張のために空港に向かう途中、この本を書店で手に入れて、往復の機内で読み通した。 「はじめに」で著者が西郷隆盛のことを定義しているが、いきなりそこに違和感を覚えた。 ――― 西郷隆盛といえば今日の読者がまず思い出すのは「征韓論」のことであろ…
「明治留守政府」とは、聞きなれない言葉かもしれない。明治四年(1871)十一月、横浜を発った岩倉使節団の海外派出中に留守を任された政府のことである。留守政府が政務を担ったのは、明治六年(1873)までの約二年足らずであった。 岩倉具視、大久…