2011-10-01から1ヶ月間の記事一覧
幕末・明治期は、鎖国から開国に転換した時代であり、我が国における写真時代の始まりを告げる時代でもあった。ことに開港地である長崎は、ベアトやボードインといった外国人の写真家、あるいは上野彦馬という我が国写真史のパイオニアというべき人物が盛ん…
著者はいう。「江戸城のあり方が、現代の東京や、ひいては日本のあり方を決めた」「大名屋敷は、その江戸城構築、江戸の建設というグランドデザインに基づいて作られた血であり、肉である」 確かに東京を歩いていると、至るところに江戸城や大名屋敷の遺構が…
(三島宿) 三島駅の南に旧街道が走る。旧街道沿いに本陣址や問屋場址といった石碑が建てられている。 樋口本陣址 世古本陣址 三島は三島大社の門前町であり、伊豆の中心地として古くから繁栄した。徳川幕府が宿駅制度を設けると、三島は日本橋から数えて十…
(養老川) 慶應四年(1868)閏四月、新政府軍は幕軍残党を養老河畔に追い込んだ。幕軍は最後の抵抗を試みたが、数に勝る新政府軍の圧勝であった。周辺には幕軍(徳川義軍)の戦死者の墓が点在しているという。その場所を知るため、五井の市原市立中央図…
(工部大学校址) 工部大学校址碑 虎ノ門交差点の北西角、現在霞ヶ関コモンゲートの一帯は、江戸時代には延岡藩邸があった。維新後、工業分野における人材育成を目的として工学校が開設された。明治十年(1877)には工部大学校と改称された。工部大学校…
(弁護士会館) 大岡越前守忠相屋敷跡 日比谷公園の西側、霞門の交差点付近には弁護士会館があるが、ここはかつて大岡家の上屋敷のあった場所である。有名な大岡越前守忠相は、八代将軍吉宗に重く用いられ、二十年以上にわたって南町奉行職にあった。大岡忠…
(追浜官修墓地) 追浜官修墓地 京急の追浜駅からバスに揺られること約十分。深浦バス邸で下車して追浜随道へ向かう。隋道の入り口前の急な階段を昇ると追浜官修墓地がある。 西南戦争では多数の負傷者が発生した。明治政府は、戦傷者を後送するために和歌山…
(石長) 木戸孝允別宅 木戸邸内部 達磨堂 犀渓様より、京都の木戸孝允別邸が特別公開されているとの情報をいただき、祖父の二十三回忌で帰省したのを機に足を運ぶことにした。この日は、朝から大阪府下(天王寺・柏原・藤井寺・大阪狭山・河南・河内長野)…
(療病院址) 療病院址 長州藩邸址である京都ホテルの近く、御池大橋西詰めに療病院址の石碑がある。 明治五年(1872)、蘭学医明石博高が資金を集めて、ドイツ人医師を招いて療病院を開設した。療病院は一か月後に青蓮院に移り、のちに京都府立医科大学…
(延命寺) 延命寺 河内長野市神ヶ丘という山深い集落の中に延命寺という古刹がたたずんでいる。 墓地への参道 毘沙門堂の傍らに墓地へ続く階段がある。道は緑色の絨毯をひいたように苔が生している。ヒグラシの声が染みとおるような静寂の中を上ると、日露…
(石川公園) 贈正五位長野一郎之碑 河南町大ヶ塚の交差点の北側には石川公園と呼ばれる緑の多い公園がある。公園は丘陵状になっている。坂を上っていく途中に墓地があり、そこに鳥居を備えた長野一郎の墓がある。 長野一郎は、本名を吉井儀三といい、河南大…
(狭山市立東小学校) 狭山市立東小学校 狭山藩陣屋跡 狭山藩陣屋址の石碑は、中央の石碑(こちらには校歌が刻まれている)ではなくて、その傍らの長方形のものである。 狭山藩は、北条早雲の流れを汲む北条氏が江戸期を通じて藩主をつとめた。第二代藩主氏…
(伴林氏神社) 伴林氏神社(ともばやしのうじのじんじゃ)は、大伴連の先祖、天押日命(あまのおしひのみこと)や道臣命(みちのおみのみこと)らを祭神とする神社である。この神社の近くで生まれた伴林光平は、この神社から姓をとって名乗るようになった。…
(田中楠之助碑) 贈従五位田中楠之助碑 田中楠之助は、法善寺村の大庄屋の出身で、比較的裕福な家に生まれた。水郡善之丞の家に出入りして感化を受け、尊皇攘夷思想に傾倒した。天誅組が蜂起すると、中山忠光一行を河内に案内し、五條代官所襲撃にも加わっ…
(稱念寺) 清(さや)地蔵 今年の夏休みは、世間のお盆休みから一週間ほど時期をずらして関西に帰省した。その中の一日、大阪、京都の史跡を訪ね歩いた。 手始めは、四天王寺夕陽丘の稱念寺である。この付近は「夕陽丘」という詩的な地名が付けられているが…
(東海寺) 東海寺 従二位勲一等子爵長岡護美卿墓 長岡知久子墓 長岡護美は、天保十三年(1842)熊本城下に生まれた。父は熊本藩主細川斉護で、護美は三男であった。分家して長岡姓を名乗った。文久二年(1862)、朝廷の京都警護の要請に応えて熊本…