2017-04-01から1ヶ月間の記事一覧
今年は大政奉還から百五十年というメモリアルイヤーである。「そうか、あれから百五十年か」と感慨に浸っているのは、少なくとも私の身の周りでは私だけであるし、世間もそのことで騒いでいる様子はない。大政奉還の関連史跡といえば、京都の二条城くらいの…
つい先日、横浜外人墓地でカリューの墓を訪ねたところである。傍らの銅板には「妻イーデスによって毒殺された」と解説されているが、詳しく知ろうと思えば、元サンデー毎日記者徳岡孝夫氏の手になる「横浜・山手の出来事」以上の本はないだろう。本書は、平…
「勝海舟の明治」に続く安藤優一郎氏の本である。しかし、勝海舟と比べると、西郷隆盛の明治は遥かに複雑である。西郷隆盛はどうして遣韓使節を主張したのか。どうして西南戦争を起こしたのか。どうして戦闘の指揮を取らなかったのか。明治政府の首班として…
(西南戦争官軍第三旅団本営跡) 西南戦争官軍第三旅団本営跡 これも前回の訪問時に発見できなかった石碑である。菊池観光協会に問い合わせして、場所を特定することができた。前回、光徳寺の西側ばかりを探していたが、この碑は東側三十メートルばかりの地…
(廣現寺) 薩軍が宿営地とした廣現寺と音光寺を訪ねる。二つの寺は隣り合っている。 廣現寺 (音光寺) 音光寺 (妙蓮寺) 妙蓮寺 妙蓮寺境内には推定樹齢六百年という大楠がそびえたっている。その根もとに古い墓石が置かれているが、その中の一つが神風連…
(金凝神社) 一年前に山鹿の西南戦争史跡を案内していただいた際に漏らしてしまった金凝神社を訪ねる。境内に地元の人たちが軍夫として従軍し、無事に帰還したことを記念して建てられた祠がある。 金凝神社 軍夫の碑
(梅林児童公園) 松村大成 永鳥三平両先生顕彰碑 これも前回訪ね当てられなかった松村大成、永鳥三平顕彰碑である。兄弟が生まれた梅林の児童公園内にある。 児童公園と名付けられているが、実際に子供の姿はなく、老人がたくさん集まっていた。松村・永鳥…
(薩軍三勇士の墓) 西南役薩軍戦没勇士之墓 前回行き着けなかった薩軍三勇士の墓に再チャレンジである。山北保育園の南側の丘にある。 この墓に葬られているのは、薩軍の藤坂吉左衛門宗隆、伊集院義兼、山倉文左衛門義種の三 士。このうち藤坂、伊集院の命…
(七本官軍墓地) 七本官軍墓地 陸軍少尉正八位河原林雄太之墓 西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した官軍墓地は、全部で二十一カ所ある。七本官軍墓地は、西南戦争を通じて最激戦地となった田原坂や植木、滴水、木留などで戦死した東京、…
(田原坂資料館) 映画や小説の舞台となった場所を訪ねる行為を「聖地巡礼」というらしい。私にとって史跡訪問は「聖地巡礼」と同じことかもしれない。数多い史跡の中で、個人的に「聖地」と呼ぶに相応しい場所が田原坂である。今回、二十年振りに田原坂公園…
(明徳官軍墓地) 植木の緒戦では、官薩両軍とも大きな損害は出ていない。ほんの数人という戦死者の中に連隊旗手河原林雄太少尉がいた。 明徳官軍墓地 明徳官軍墓地には、百二十二基の墓石がある。政府軍の陸軍士官・二、下士・十七、兵卒・九十八と軍夫・五…
(中央公民館) 熊本藩二代藩主細川光尚が、自ら宇土へ足を運び、弟にあたる細川行孝のために屋敷建設地を見分した。現在、宇土市教育委員会付近を宇土藩陣屋場所と定めて、陣屋が建設された。完成は正保四年(1647)。当時の建物は現存しておらず、教育…
(鏡町) 鏡町の鑑内橋は文政十三年(1830)頃、種山の名石工、岩永三五郎が造ったといわれる。鏡町と内田村を結ぶことから、鑑内橋と呼ばれ、江戸時代には八代、松橋を結ぶ往還の要所であった。 鏡内橋 明治十年(1877)の西南戦争では、日奈久洲口…
(春光寺) 春光寺 春光寺は、八代城主松井家の菩提寺で、裏山には松井家歴代の古廟がある。 辺見十郎太率いる薩軍がここに本陣を置いた。明治十年(1877)四月、特に激しい戦闘となった。寺の神道碑、御次の間の板襖、達磨象に弾痕が残っているらしいが…
(日奈久州口) 衝背軍上陸の地 薩軍が熊本城攻城を開始して約一ヶ月後、政府は衝背軍を編成し八代の南方、日奈久洲口から上陸させた。これは、薩摩出身の高島鞆之助陸軍大佐の献策を陸軍卿山県有朋が容れたものであった。 日奈久は古くから温泉町として栄え…
(峰崎官軍墓地) 芦北高校の裏手の山の中に峰崎官軍墓地がある。この官軍墓地は明治二十三年(1890)、西南戦争における政府軍の戦没者八十六名を葬ったものである。 峰崎官軍墓地 峰崎官軍墓地 (田浦官軍墓地) 明治十年戦役従軍戦死者之墳墓 芦北町…
(城山公園) 水俣が西南戦争の際、戦場になっていたというのは少し意外かもしれない。大口を守る辺見十郎太は来襲した官軍を迎え討つべく、なんと大口から三十キロメートル以上も離れている水俣まで遠征しているのである。 薩軍慰霊碑 水俣城跡は現在公園と…
(武家屋敷) 武家屋敷門 永国寺から歩いて数分。西郷隆盛が宿舎として利用した。但し、西南戦争時に焼失したため、現存の建物はその後ほかの邸を移築したもの。 屋敷の主、新宮嘉善は父親が官軍に属していたが、身の潔白を証明するため、住んでいた家族・親…
(人吉城) 史蹟 人吉城 人吉市内の史跡探索は、人吉城からスタートする。人吉城は、北と西を球磨川と胸川を天然の堀として利用し、東と南は台地状の地形となっている。伝承によれば、元久二年(1205)、人吉荘地頭に任命された、遠江国相良荘の御家人相…
(宮原) 氷川戦争記念碑 氷川町には西南戦争時の氷川での戦争を記念する石碑が、宮原町と鹿島町の二か所にある。これも事前に氷川町の教育委員会に問い合わせをし、詳細な地図まで送ってもらった。 明治十年(1877)三月十九日、日奈久に上陸した官軍に…
(峠の石清水) 峠の石清水 県道105号線を美里から宇城市街方面に進行すると、峠の石清水という湧き水がある。この石清水は標高二六五メートルの蕨野断層から自噴し、古来涸れたことがないという湧き水である。西南戦争では、三月二十六日、敗走する薩軍…
(中郡) 日向佐土原隊戦没諸士合葬之碑 美里町中郡の小さな墓地に日向佐土原隊士の合葬墓がある。美里から松橋(宇城市)では、薩軍と衝背軍とが激しい戦闘を展開した。日向佐土原隊の隊士もここで奮戦したが、衝背軍を止められず、戦死者を出して敗走を余…
(薩軍兵士の墓) 山都町は、矢部町、清和村、蘇陽町が合併して誕生した町である。誰がネーミングしたのか知らないが、行けども行けども山が重なる土地は、「山都」という町名がぴったりである。 西南の役 薩軍兵士三人の墓 長谷に薩軍兵士の墓がある。明治…
(眺世庵) 眺世庵 法光寺の脇を進むと突き当りに眺世庵がある。眺世庵は、五人の先哲の一人、増永三左衛門の別荘である。 増永三左衛門は、享和二年(1803)二月八日、御船の豪商雑穀屋増永茂三郎の二男に生まれた。この地は、増永三左衛門が全盛期に風…
(御船町役場) 御船町役場 初日の最初の訪問先は御船町である。予め御船町役場商工観光課にしつこいくらい場所確認のためのメールを送らせていただき、お蔭でほとんど迷うことなく、各史跡を訪ね当てることができた。 最近はグーグル・マップのストリートビ…
(銀座通り) 濟々黌発祥の地 銀座通りの一角に濟々黌発祥の地の碑がひっそりと建っている。 明治十二年(1879)十二月、熊本區高田原相撲町十二番地の場所で、佐々友房ほか有志により同心學舎された。のちの濟々黌の淵源とされる。
(白川右岸緑地公園) 大甲橋のたもと、白川の右岸は緑地公園となっており、そこに熊本市が建てた「熊本城突囲隊出撃の所」という説明書がある。 熊本城突囲隊出撃の所 大甲橋 熊本城が薩軍に包囲されて四十余日が経過したが、依然として城外との連絡がつか…
(イオン熊本中央店) 大煙突 イオン熊本中央店の駐車場に今は使われなくなった大きな煙突が残されている。この場所は、もともと旧藩時代には演武場として使われ、維新後は蚕業試験場が建てられた。この地に蚕業試験場を建てることを建策したのは、横井小楠…
(保田窪神社) 保田窪神社 植木学校を中心にまとまっていた熊本民権党は、専制政府を倒すことでは同じ考えだとして、薩軍に呼応することに決した。明治十年(1877)二月二十日、同志四十余名は保田窪神社の神前に集結して出陣式をあげた。投票で平川惟…
(久本寺) 久本寺に龍口隊隊長中津大四郎の碑を訪ねた。熊本市内において震災の影響は、熊本城を除けばあまり感じられないが、墓地の墓石が倒壊している例は多い。とても人間の力で墓石を倒すことなど不可能である。自然の猛威を目の当たりにすることになっ…