慶應四年(1868)閏四月、新政府軍は幕軍残党を養老河畔に追い込んだ。幕軍は最後の抵抗を試みたが、数に勝る新政府軍の圧勝であった。周辺には幕軍(徳川義軍)の戦死者の墓が点在しているという。その場所を知るため、五井の市原市立中央図書館を訪ねた。
郷土資料のコーナーで五井戦争の戦死者のことを記載した書籍を探したが、少なくとも新しい本に適当なものは無さそうである。
市原市文化財研究会刊「上総市原 第三号」(昭和五十四年十二月)と同じ文化財研究会の「義軍官軍むかしむかし」に詳しい記述があったので、必要なページをコピーした。「義軍官軍むかしむかし」に至っては昭和30年代に書かれたもので、手書きである。
この二冊の記述を頼りに五井駅からJRの線路に沿って南下し、養老川と交わる辺りにあるという「三士之墓」を探した。
「上総市原」によれば、「この橋(中瀬橋)と鉄道線路の間の堤防外に六~七軒の住宅がある・この住宅に囲まれた中央榎の下に官軍塚がある」というが、住宅の数は六軒や七軒ではないし、少なくとも目立つような榎木は見当たらない。さすがに三十年以上も前とは風景が激変している。昭和三十五年(1960)八月七日には、五井町が主催して近くの公民館で慰霊祭が執行されたようである。それから五十年。三士之墓も、時間の経過とともにどこかに消え去ってしまったのであろうか。
養老川
(観音寺)
先日、市原市立中央図書館での調査をもとに市原市の徳川義軍の墓を訪ね歩いた。結論からいえば、養老川畔にあるという徳川義軍の墓や松ヶ島の青野虎之助の墓、北青柳墓地は発見できなかった。例によって市原市教育委員会にメールを送った。
観音寺
鈴木仁三郎の墓
市原市村上の観音寺は、五井戦争の際に戦場となり、その際全焼している。
観音寺の無縁墓が一カ所に集められた一角に、徳川方の戦死者鈴木仁三郎の墓がある。
(畑木)
畑木という小さい集落に、少し高くなった丘があり、その上が墓地になっている。墓地の入口に徳川遺臣梶塚成志の墓がある。
徳川氏遺臣梶塚成志墓
表面は、江原素六の筆によるもの。「友人 江原素六」とある。裏面の「一死報恩」という文字は、大鳥圭介の題字。
(出津共有墓地)
徳川義軍陣没者慰霊碑
出津は五井戦争の激戦地である。
出津共有墓地には、徳川義軍陣没者慰霊碑が建てられている。この慰霊碑を探して墓地を彷徨していると、墓参りの老女に「何かお探しか」と声をかけられた。徳川遺臣の墓を探しているというと、ここまで案内してくれた。