(安井息軒記念館)
清武町は平成二十二年(2010)に宮崎市に編入され、宮崎市の一部となった。宮崎市中心部から九キロメートルほど南部にあり、大儒安井息軒の出身地として知られる。

安井息軒記念館

安井息軒像
私が安井息軒記念館を訪ねたのは、例によって開館時間の前、八時四十分のことであった。幸いにして館長やスタッフの方々がおられて
「まだ九時になっていませんけどどうぞ」
と、ご親切に中に入れていただけた。入館料は無料。安井息軒の偉業や生涯を紹介するために設けられた施設である。敷地内には、佐代夫人供養塔や息軒廟などがある。

佐代夫人供養塔

安井息軒廟

郷校明教堂跡地
記念館の隣地は、息軒の父滄洲や弟子たちの尽力により創建された郷校明教堂の跡地である。安井息軒自身も清武郷校明教堂で教鞭をとった。
(安井息軒旧宅跡)

安井息軒旧宅
記念館の向かい側に息軒の旧宅跡が復元されている。
安井息軒は、寛政十一年(1799)、飫肥藩校振徳堂総裁安井滄洲の二男に生まれた。十五、六歳のとき父滄洲から、一家の説ではだめであるから、和漢諸学者に学ぶべきことを教えられ、これが生涯の指針となった。背低く、顔にあばた多く、右眼がつぶれていたので、「猿が本を読んでいる」と揶揄されたが、屈せず勉学に励んだ。文政七年(1824)、江戸に出て昌平黌に入り、親友塩谷宕陰と出会った。文政九年(1826)、かねて私淑していた松崎慊堂の門に入り、藩主伊東祐相の侍読となった。これより祐相は息軒の進言を容れて善政をしいた。天保二年(1831)、日向国飫肥に藩校振徳堂が設立され、父滄洲は総裁、息軒は助教に任命された。息軒は藩政に寄与することも少なくなく、藩主に進言して間引きの弊風を改めさせた。天保九年(1838)、意を決して江戸に移住し、私塾三計塾を開いて多くの人材を育成した。異例の抜擢により、塩谷宕陰らとともに昌平黌教授となった、陸奥国白川郡塙の代官に任命されたが辞した。学風は古学の系統で、精密な考証に秀でたが、現実政治にも関心を持ち、海防や攘夷などにも憂国の論を立てた。明治九年(1876)、年七十八で没。墓は、東京文京区養源寺にある。

安井息軒旧宅上座

安井息軒像

湯地翁碑
湯地翁碑は、元清武藩士で篤農家湯地平三を顕彰した石碑である。明治三十五年(1902)、建碑。
「湯地平三は、天保元年(1830)の生まれ。明治十年(1877)、西南戦争では、西郷軍に協力したため、戦後懲役刑に服した。帰郷後は、加納村、木原村、今泉村、船引村の戸長を務めた後、明治二十三年(1890)、大日本農会設立委員となり、県内の養蚕業勧誘、造林推進などに貢献した。明治三十二年(1899)、没。

安井息軒先生誕生地
安井息軒誕生地碑は、昭和三年(1928)の建立。題字は徳川家達の書。台座の撰文は、息軒の外孫で、安井家を継いだ安井小太郎、揮毫は飫肥藩主伊東祐相の孫、伊東祐弘による。
(中野神社)
中野神社は、明治十年(1877)の西南戦争により焼失したが、現在の社殿は昭和十五年(1940)起工、その二年後復元されたものである。

中野神社
(歴代安井家墓地)
儒者安井息軒を輩出した安井家は、南北朝時代に上野国安井村(現・群馬県)から日向国に移り住み、伊東氏に仕えた。
江戸時代には、十九代朝堯が清武奉行を務めるなど藩内で重用され、二十二代朝宣からは軍法指南役として清武衆となった。
安井家墓地には、奉行職を務めた朝堯のほか、清武に居住した朝宣から息軒の曽孫の子、恭一に至るまでの墓が残されている。

歴代安井家墓地

息軒の兄 安井朝淳の墓

伊東家僑墓
安井家墓地に隣接しているのは伊藤家僑墓である。清武郷住民が、盆、彼岸、正月の参拝に飫肥まで出かけずに済むように、分骨祭祀して建立されたもので、初代伊東祐兵(すけたけ)から十二代祐丕(すけひろ)(文化十一年年没)に至るまでの板碑形式の僑墓(きょうぼ)である。
僑墓というのは、埋葬地が離れていたり、遺体の所在が不明のときに礼拝のために作られた墳墓のことである。